彼のまわりの人にはよく知られたエピソードなんだけど、実はすごくだらしがない面があるんです。整理整頓が苦手で、あるとき車のトランクを開けて靴下を探すんだけど、どうやっても同じソックスのペアが出てこない。しょうがないから片一方はショート丈、片一方はハイソックスで走り出す。どうにもキマらないからハイソックスのほうははずり落としてはいて。でもあまり気にする様子がないんですよね。その手の“ずぼら”エピソードにはことかきません。
ただ、細かいことを気にしないこの性格こそが走りの強さにもつながっていると思います。彼は二面性を持っていて、レースの前はプロらしくしっかりち密なレースプランを立てます。だけど、ウルトラトレイルは距離が長くなれば長くなるほどトラブルが起こりやすく、プラン通りに行かなくなる側面があるんです。どうしようどうしようと慌てて、悪いサイクルに入ってしまい、自滅する人が多い。でも、鏑木選手の場合は調子が悪かったりトラブルだったりをおおらかに受け入れ、そのときどきで軌道修正していくことができる。ち密さとおおらかさのバランスがうまく取れているんじゃないでしょうか。
鏑木選手がUTMB®、100マイルレースというものに出会ったのは2007年のことです。その年の春に弊社のスポンサードで開催したOSJ箱根50kmで鮮やかな逆転優勝を遂げ、副賞としてシャモニの地を踏みました。スタートを見送って、前半のエイドまで観戦バスで移動し応援しにいったら、まぁまぁいいペースで入ってくるんですよ。これはひょっとしたらひょっとするんじゃないかと思いました。
その次に会ったのはレース最高峰であるグラン・コル・フェレへの登りのセクション。約100kmくらいの地点ですが、そこで我が目を疑いました。これまで国内のどのレースでも見たことのないくらい消耗し、ボロボロになっていたんです。他の日本人ランナーも含めてとんでもない壊れっぷりで。そこで初めて、これはとんでもないレースに連れてきてしまったと後悔しました。たいした情報もないまま、プロモーション側の勝手な思惑で、ひょっとしたら彼らの選手生命がここでもう終わってしまう可能性のあることをさせてしまったと。そこから先はもう心配で心配で、歩いてもいいしリタイアでもいいから、とにかく無事に日本に帰れるようにと祈っていました。
最後にゴール手前10kmくらいのところで待つわけですが、そこに鏑木選手が、大腿筋に内出血の血をためてジャブジャブいわせながら現れます。歯を食いしばり、ポールにすがるようにして、順位は12、3位くらいで。そのまま12位でシャモニの街へと帰り着きました。ゴール後は数百メートル先のホテルまでも自力では歩けないような状態になり、帰りの空港内では車イスで移動したほどです。
話は戻って、ゴール翌日に鏑木選手と表彰式を見に行きました。UTMB®の表彰式には10位までの選手が登るんですけど、そのとき何気なくぱっと横顔を見たら、すごく悔しそうな顔をしているんですよ。あと2人抜いていたらあそこに登れたんだって。僕らの事前の情報収集が甘くって、表彰台は6位までと思い込んでいたんですね。
繰り返しになりますが、はじめての100マイルでボロボロになって、身も心も打ちのめされる、もう二度といいやと思われてもしょうがないレースが終わった直後なのに、来年は表彰台に上がりたいという顔をしていたんです。
2008年、09年くらいが全盛期、一番強かったころだと思いますけど、我々の期待を絶対に裏切らない選手という印象が強く残っています。プロモーションのために雑誌でレースの取材記事を組んだり、テレビのドキュメンタリーが入ったりするときほど、驚くべき結果を出すんですよ。他の日本人アスリートは、五輪競技の選手も含めて、そういうプレッシャーに押しつぶされてダメになってしまうケースが少なくないですよね。でも、彼はプレッシャーをむしろ力に変えて、必ず結果を出す。それが彼の一番の強みなのではないでしょうか。
UTMB®は世界最大のトレイルランニングの大会であり、実質的な世界選手権であるというのは、今や世界中の人たちが認めることだと思います。そこに自分自身の一番輝ける場所を見つけた鏑木毅という男は、2012年を最後にそのレースを走っていません。この大会が大好きだけど、ここに照準を絞る限り他のレースが走れなくなってしまうからと、卒業したんですね。それは一人のアスリートの判断としてよくわかります。でも、僕は心のどこかでもう一度彼がUTMB®を走ってくれたら面白いのになと思っていました。だから50歳で再び挑むと聞いて……。またあそこを走る姿を想像すると胸が高鳴りますね。どんな結果になろうとシャモニの人は歓迎してくれると思うし、主役がひとり帰ってきたっていう雰囲気になるのではないでしょうか。
NEVER エピソード1 『リベンジ、始動』より抜粋