「何をするにも自信が持てず、いじめられっ子だった幼少期、ただひとつ得意といえたのが長い距離を走ることでした。決して速くはなかったのですが、粘ることに向いていたんです。中学3年から陸上長距離を始め、2浪を経て早稲田の競走部の門をたたいたのですが、箱根駅伝のメンバーにはあと少しというところで手が届きませんでした。自暴自棄になって、卒業後は群馬県庁に務めましたが、抜け殻のような日々。自暴自棄の数年間でした。こんな人生、もう生きている価値ないなって。そんなとき出会ったのが、地元の新聞に載っていた一枚の写真でした。山を駆けるランナーの姿を見て、こんな世界があるのかと。1年後に参加したその大会でトレイルランの虜になりました」
「このころは週末がくるたびに群馬県中の山を、さらには県外へと飛び回っていました。楽しいから走る、すると自然と強くなる。だからレースでも結果が出る。楽しくて楽しくてしょうがなかったです。平日で、昼休みに群馬県庁にある30階超の非常階段を何往復もしたり。年間でターゲットにしていたのは富士登山競走でした。日本一高い山を、日本一早く駆けあがる。その明快さに惹かれたんです」
第7戦 キナバル国際クライマソン(マレーシア)
第7戦 キナバル国際クライマソン(マレーシア)
「2005年度には、当時、日本国内でメジャーだった3大大会 をすべて制することができて、自分でいうのも何ですが国内では敵なしでした。でもいくら成績を残してもマイナー競技としてのストレスがあって、世間一般からはほとんど無視されているような状態で。まあいいやという思いと、でも心のどこかでは認めてほしいという気持ちのはざまで、常に揺れ動いていました」
第4戦 御嶽スカイレース
第7戦 アンドラスカイレース(アンドラ公国)
「30代後半になって、レースでタイムを縮めることに限界を感じ始めていました。だから順位を競うようなレースはこれで最後にしようと臨んだのが、2007年にただ一度だけ開催された箱根50Kです。その副賞がUTMB®(ウルトラトレイル・デュ・モンブラン)への出場権でした。モンブランに行けるのかと観光気分で走ったのですが、そこからが第二ステージのはじまり。あまりの壮大さに、これはレースではなく旅と感じました。このときの優勝者は当時59歳のマルコ・オルモ選手(イタリア)でした。その衝撃は今でも忘れられません」
チャンピオンシップ・サンフランシスコ
チャンピオンシップ・北京
チャンピオンシップ・北京
「寝ても覚めてもUTMB®のことばかり考えていたころ。2008年にトップ5へと入り、公務員を辞してプロとしてやっていくことを決意しました。将来の保障なんてなかったけれど、世界一になるんだとライバルの顔を思い浮かべながらトレーニングに励む日々を過ごしました。40歳にして最高に充実していましたね。ぐーっと走力が増していく実感があって。その結果が2009年の3位です」
チャンピオンシップ・北京
チャンピオンシップ・サンフランシスコ
「2010年のUTMB®が悪天候で途中打ち切りとなりましたが、このころにはすでにアキレス腱の致命的な痛みと闘っていました。2013年のグランドレイド・レユニオンは補給トラブルで人生初のリタイア。リベンジを期した翌年も不整脈が発症して再び棄権となりました。今のままの走り方ではいずれ死んでしまうかもしれないと感じ、これ以降、レースへの挑みかた、年齢への抗いかたを根本的に見つめ直すきっかけになりました」
撮影 八木伸司 / Photo by Shinji Yagi